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[ 007 ] 故郷の山を歩いて
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03. 6.20
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宝仏山 野田から
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牛頭天王を奉る根雨神社
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日野川の静かな流れ
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出雲街道の町並み
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宝仏山と根雨
小2の頃に父に連れられて畑のあった小平(こなる・・・後述の「おおなる」と共にこの地名の優しい響きは望郷の念を駆り立てます)に、
また、高1の時兄姉らと山頂まで登った記憶があります。 実に47年振りの故郷の山、宝仏山(ほうぶつやま)登山でした。
記憶に残る様子など殆どありませんでしたが、ただ山頂付近の巨岩だけは昔のとおりに有りました。
水場は歴史民族資料館(旧公会堂)の直ぐ右後(南側)にあります。飲めるかどうか判りませんが、
下りてきての汗拭きには冷たく気持ち良く使わせてもらいました。
登山道は最初殆どスギやヒノキ林の中にあり、大平(おおなる)を過ぎると傾斜を増してブナやミズナラの小尾根道となって
鮮やかな緑が目を楽しませてくれます。 しかし、見晴らしが開けるのは山頂付近の稜線に1箇所と山頂のみでした。
でもその分陽射しを気にすることなく歩ける良さがあるようです。
大平手前の雑木林には野イチゴがいっぱいありました。気をつけて歩くとフタリシズカやツクバネソウも咲いています。
標高1005M(地図には1002M、パンフでは1005Mです)は決して高くありませんが、山頂まで距離約3Km、
標高差800mは侮り難い山でした。 小中学校の同級生を含むボランティアの皆さんで開設したという登山道は、
歩きやすく工夫の跡が見受けられました。 ご苦労様でした。
故郷の根雨(ねう)について少しばかり写真で紹介してみましたが、その他に野鳥のオシドリ、清流日野川の鮎釣り、
金持神社など訪れる人が近年結構あるようです。
山間の町なるが故に、今回も朝霧に包まれた緑の静かな町でした。清流に生きる鯉・鮎・鰻などの川魚料理が自慢の町でもあります。
昔から、四十曲峠付近を水源として流れる板井原川(いたいばらかわ、日野川の支流)の流れを堰き止め、引き込まれた清流は
上(かみ)から下(しも)へと町なかの水路を流れ、一般家庭や旅館は軒先や庭に池を作って観賞用や食用の鯉を飼っています。
町のほぼ中央にあたる日野川と板井原川の合流地点には原始信仰の姿を伝え水の神を奉る根雨神社と、
町の東背後に聳える宝仏山が、それぞれ町のシンボル的存在であったように思います。
根雨という美しい響きを持つ地名は文学者横光利一も「すばらしい!」と褒めたと言います。
松江藩の参勤交代路であった出雲街道の備後にも通じる街道の交差点として、また鉄山事業家の豪商近藤家の居が
郷愁を誘う町並みとして残る、江戸時代から栄えた宿場町なのです。
父のこと
清流の板井原川の直ぐ傍に佇む我が家を、父は河鹿荘(かじかそう)と名付けていたと聞きます。
夏の夕暮れになると河鹿の鳴き声が、窓や戸を開けっ放した家の中に飛び込んできて、煩いほどよく聞こえたものでした。
満36歳を前にして責任あるポストに任命されて苦悩する中、ひと時の静寂さの中に身を置いて心の安らぎを求めていたのでしょうか、
それとも風流を気取ったのでしょうか・・・、短歌を詠み自慢の墨筆で綴った歌が残っていました。
・色々のこと思ひ居れば河鹿鳴く川音冴えて夜更けにけり 翠雲 (S22.7)
厳しい躾を求めた父との楽しい思い出は殆どありません。もっとも四人の子供の中で末っ子の私は兄姉に較べて出来が悪く、
いつも叱られていましたから当然なのですが・・・。 しかし、父の叱ったり時として体罰があったのも、
こう育って欲しい、こうでなければ世の中生きていくのは大変だぞ、と教えようとする子供想いや家族想いの心が、
そうさせていただけではないでしょうか。 これは何処の家庭でも、昔も今も同じだと思います。
年老いて背の曲がってしまった父の姿を思い出すたびに、あの頃の言動の尊さを身に沁みて感じています。
明治末期に貧農の末っ子として生まれ育ち、奉公に出されながらも兄姉の援助を受けて上の学校を出、若くして責任あるポストに就き、
張り切りながらも難題を前にして苦悩するうち夜も更けて・・・、果たして良い案は浮かんで来たのでしょうか・・・。
社会に出て、3K付きの仕事をしていた私が休暇で家に帰ると必ず、「危ないことは無いだかや」と心配してくれていました。
奉公先で過労で倒れたこともあった父はやがて連れ戻され、向学心に燃える意を汲んでもらい上の学校に進みました。
家族が離れて暮らすことの、危ない仕事に就くことの、辛さや怖さを若き日に経験したようです。
母と結婚して健やかな家庭作りを目指したのが良く解ります。敗戦の厳しい食料難の中で妻や子等を案ずる歌もたくさんありました。
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何一つ父に優ることが出来なかった私にとって、その3年後それ以上の重い任に就き、
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その後18年間その職務を果たし続けた父は、私にとって誰が何と言おうと大きな誇りです。
病弱で私を生むことを躊躇したという母は、高1の初夏42歳の若さで病死しました。今から47年前のことです。
でも、父を信じ励ましに頑張った母のお陰で私は生まれ、今も元気に生きていられるのです。
このことを両親に感謝しつつ身体を大切にして生きて行かなければと何時も心して来ました。
しかし、父の死後に危険がつきものの山歩きを始めてしまっています。生きていたら何と言うのでしょうか。
私も人並みに家庭を持っていますから、大山の危険な縦走路や北アの難路を歩くときは、両親の許しを請い、吾が家族を想い、
命の大切さを噛締めながら一歩一歩用心深く歩いていますが・・・。
大山から神戸への帰路は出来るだけ立ち寄って、大山の見える延暦寺の墓地に眠る母と父に、両手を合わせて
「今暫く見守ってくれよ!」 と、末っ子らしい相も変らぬ甘えをお願いして帰ることにしています。
・戸を閉めて河鹿の声の遠のきぬ 翠雲 (S22.6.03)
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